【春日部市史】東武鉄道の開業

東武鉄道の開業

東武鉄道の設立が出願されたのは明治28(1895)年4月であったが、同鉄道は同年6月22日に逓信大臣白根専一から仮免状を下付された。そこで、同年10月16日、東京市日本橋区坂本町の銀行集会所で創業集会が開かれた。資本金は265万円(5万3000株)、株主数は487人であったが、創業総会に出席した株主は338人(4万883株、208万4150円)であった。そして、明治29年12月1日、東武鉄道会社の設立ならびに鉄道敷設の申請をし、翌30年9月3日付で逓信大臣から本免許状の下付を受けた。
東武鉄道は、免許区間のうち北千住・久喜間を第一期工事とし、明治31年4月、技術顧問に本間栄一郎、技師長に宮城島庄吉を迎えて同年11月10日に着工した。大沢町に技術部出張所を置き、久喜、草加にはその派出所が設けられた。建設工事は当初北千住方面から行われる予定であったが、北千住・西新井間や草加付近で用地買収に困難を来したため、久喜・大沢間、草加・千住間の双方から着工することになった。明治32年8月19日、北千住・久喜間(25マイル)全線の工事が竣工し、26日には逓信大臣から開業免許状が下付され、翌27日に開業した。
開業当初、北千住・久喜間には、西新井、草加、越ケ谷、粕壁、杉戸の5駅が設置された。全線の旅客運賃は33銭、賃率は1マイルあたり1銭3厘で、客車と貨車の混合列車(客3、貨車1)が1日に7往復していた。明治32年12月には新田、蒲生、武里、和土の4駅、33年3月には竹ノ塚駅が設置され、短距離旅客の便がはかられた。その結果、草加馬車鉄道の旅客も次第に東武鉄道を利用するようになり、同馬車鉄道は明治33年末に営業を廃止した。

粕壁駅の乗車

東武鉄道の沿線には日本一と称せられる「牛島藤花園」があった。粕壁駅はその「牛島の藤」の最寄り駅であったが、東武鉄道はこの牛島の藤の観覧車のために北千住、鐘ヶ淵、白髭、浅草、舘林、足利などの各駅から粕壁駅への乗降客に対し3割引きの往復切符を発売した。また、『国民新聞』は「牛島の藤花園」という見出しで次のように紹介していた。
「桜もはや青葉と茂りゆきて心のまつにかかる藤波の咲出づるころともなりぬこの園は埼玉県粕壁町を東に入る数町牛島といういふ所にあり 藤の名所にて樹は古くしないも長く紫雲陰をなす時は其あでなるといはん方なし されば年々杖を曳くもの多しとぞ遠足がてらには程よき所なり」
また、粕壁には越谷の桃林とならび称される桃林もあった。東武鉄道は、東京方面からの桃林への見物客のためにも割引切符を発売した。
開業当初においては東武鉄道もまだ旧来の舟運貨物を十分に吸収することができなかった。明治35年からは混合列車のほかに貨物列車が運行するようになったが、貨物輸送が軌道に乗るためには、東武鉄道が路線を延長し総武鉄道などとの連絡がなされなければならなかった。
大正15(1926)年10月5日には、東武鉄道の越ケ谷駅から粕壁駅までが電化された。これに伴って、粕壁・浅草間には1日往復ともに40回を超す「普通客車」と電車が発着することになった。浅草・粕壁間の電車の所要時間は、57分であった。東武鉄道は、電車の開業から5日間、浅草・粕壁間の往復客にかぎり乗車賃を半額にした。

<参考>
東武鉄道の沿革

『春日部市史 第六巻 通史編II』(平成7年3月発行)
明治期 第三章 近代化の進行と春日部
第二節 千住馬車鉄道と東武鉄道の開通 東武鉄道の開業(P140)より

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